オマージュ瀧口修造

佐谷和彦のオマージュ瀧口修造

1973年、45歳になった佐谷和彦はそれまで勤めていた銀行を辞め、当時現代美術のパイオニアと目される活動を活発に行なっていた南画廊で仕事を始めます。それを機に日記をつけ始めました。以来病気を発症する2008年までほぼ欠かさず記されました。日記にはその日の天気から、誰に会い、話し、考えたか、公私にわたって克明に綴られています。

南画廊で仕事を始めたことがきっかけで憧れの存在であった瀧口修造との交流が生まれます。日記の中で佐谷和彦が中山久(南画廊時代に知り合った愛好家・和彦のよき相談相手となる)、藤林益三(最高裁判所長官)と並んで、「先生」とためらうことなく呼んでいたごく限られた人生の先達の一人でした。瀧口修造が亡くなった2年後の1981年7月より、和彦のライフワークとなるオマージュ瀧口修造展が始まります。瀧口修造の交友と影響とを多角的に浮き彫りにしたオマージュ瀧口修造展は2006年まで28回にわたり開催されました。

佐谷和彦の書籍における瀧口修造と
オマージュ瀧口修造展についての記述(『佐谷画廊の三〇年』より抜粋)

<・・・>このオマージュ展が、わがライフワークになろうなどとは、当時さほど深く考えてはいなかったように思う。敬愛する瀧口先生の作品展をふくめ、先生とは厚い交友関係にあった画家たちの個展をシリーズでとりあげようというものであった。
この目論見は、うまくあたったようであった。しかし、それは半分ほど。回を重ねるにつれて、作家や関係者のかたがたから、身にあまるほどの話をきく機会にめぐまれ、もともとの私の企画と重なり、それは確信になったのである。瀧口先生の全体像が一挙にひろがった。私の予想をはるかに超えるものであった。浮かんできたアイデアは、その場でノートに書きこんだ。私のライフワークの骨格が出来上がったのである。画商冥利につきるとはこうしたことをいうのだろう。<・・・>

佐谷和彦『佐谷画廊の三〇年』みすず書房 p229 「あとがき」より抜粋

<・・・>一九六八年に南画廊主催で催された、サム・フランシスの個展でのことでした。そこで、サム・フランシスと話している、いくぶん小柄で白髪の初老の紳士を見たんですね。<・・・>

あの方が瀧口先生かと、その時はファンの心境で眺めていただけです。とても瀧口先生と話をするなんで考えられません。ただ黙ってみつめているばかりでした。
<・・・>二〇年間勤めていた銀行を思い切ってやめ、南画廊に勤めることになったんです。七三年のことでした。それから瀧口先生とも次第に接触する機会がふえていったんですね。たびたびお会いするようになると、銀座の本屋を歩いた後、小料理屋でビールを一緒に飲んだり、西落合のお宅にうかがうことにもなりました。瀧口先生のお話は声は低いのですが延々とつづくんですね。先生の書斎には本や雑誌やカタログなど、なんだかふしぎなものやらがいっぱいあふれていますから、私の持参した本や雑誌は、いつのまにか見えなくなってしまいます。ブルトン、ダリ、ミロ、デュシャン、サム・フランシス・・・・・・それから日本の作家についてももちろんですけれども、延々と続きます。放っておいたら夜明けまでもしゃべられたんじゃないかと思うぐらいに、次から次へと話をされました。私は先生のお身体の具合を心配してこちらから話を切り上げるのが常でした。たいへん有意義な講義をしていただいたと思っています。私にとっては至福の時間でありました。<・・・>

<・・・>瀧口先生という方は、たとえばアントニ・タピエスと詩画集を作っています。ミロとも二度、詩画集を作っておられますね。それからデュシャンとの間には『デュシャン語録』という本があって、その特装版に五人の作家の版画を入れるというユニークな仕事もしておられます。<・・・>
現代芸術の歩みを考える場合、戦前、戦後を通じ、瀧口先生の仕事はもっと評価されてしかるべきでしょう。<・・・>
この国の美術を考えた場合、瀧口先生はとても大事な人ですから、その人のしごとにかかわるというかたちで、私は美術の仕事をやりたいと思いました。それが「オマージュ瀧口修造展」だったわけです。<・・・>

佐谷和彦『佐谷画廊の三〇年』みすず書房 pp187-226
「瀧口先生との三十年『オマージュ瀧口修造展』をふりかえる」より抜粋(初出『現代詩手帖』2003年11月号)